目次
- 1 東洲斎写楽 作品~浮世絵syaraku
- 2 東洲斎写楽 作品~浮世絵とは
- 3 東洲斎写楽 作品~浮世絵の語源は?
- 4 東洲斎写楽 作品~「肉質画」と「木版画」
- 5 東洲斎写楽 作品~版元での分業体制で量産
- 6 東洲斎写楽 作品~浮世絵が庶民に広まったわけ
- 7 東洲斎写楽 作品~浮世絵で人気のテーマは?
- 8 東洲斎写楽 作品~浮世絵界TOP5のスター絵師
- 9 東洲斎写楽 作品~写楽は蔦屋重三郎tsutayaプロデュース!
- 10 東洲斎写楽 作品~謎の絵師・写楽とは役者だった?
- 11 東洲斎写楽 作品~写楽の浮世絵は売れなかった?評価は?
- 12 東洲斎写楽 作品~写楽の正体は?
- 13 東洲斎写楽 作品~写楽は能役者の斎藤十郎兵衛だったのか?
- 14 東洲斎写楽 作品~写楽別人説
- 15 東洲斎写楽 作品~写楽=斎藤十郎兵衛説
- 16 東洲斎写楽 作品~東洲斎写楽の浮世絵作品
- 17 東洲斎写楽 作品~写楽が活動したのはたったの10ヶ月間!
- 18 東洲斎写楽 作品~写楽第1期(寛政6年5月~)
- 19 東洲斎写楽 作品~写楽第2期(寛政6年7月~)
- 20 東洲斎写楽 作品~写楽第3期(寛政6年11月~)
- 21 東洲斎写楽 作品~写楽第4期(寛政7年1月~)
- 22 東洲斎写楽 作品~写楽前期と後期は別人が描いた?
- 23 東洲斎写楽 作品~写楽の大首絵と歌麿の美人大首絵
- 24 東洲斎写楽 作品~写楽の雲母擦(きらずり)
- 25 東洲斎写楽 作品~「写楽心中」写楽の娘が主人公の人気漫画
- 26 東洲斎写楽 作品~写楽映画
- 27 東洲斎写楽 作品~葉月里緒奈「写楽」
- 28 東洲斎写楽 作品~東洲斎写楽美術館
- 29 東洲斎写楽 作品~まとめ
東洲斎写楽 作品~浮世絵syaraku
皆さんこんにちは。
JOFAアートスクール校長
曼荼羅アーティストのMASAKOです。
本日のテーマは東洲斎写楽 作品
「東洲斎写楽の浮世絵」
フルネームで呼ばれると
え?誰?
ってわからなくなりますが
シンプルに
「写楽」といえば
多分、すべての日本人の頭に
あの独特の役者絵が
パッと浮かぶのではないでしょうか。
「Syaraku」の表記で
海外にも通じます。
写楽の浮世絵グッズやTシャツ
北斎と並んで
海外のお土産に大人気ですよね。
しかし、大人気の割には
写楽がどんな人か?
は知らない人がほとんどです。
それもそのはず
写楽はなんと
たったの10カ月間に
145点もの浮世絵作品を発表し
そのまま消えてしまった
謎だらけの人物なのです。
びっくりですよね~~~!
10ヶ月で145作品かぁ・・・
描けるかなぁ・・・
(遠い目)
(ヾノ・∀・`)ムリムリ
とてもじゃないけど私は描けません;
ま、マジすか~
写楽、スゴイにゃん。。。
東洲斎写楽 作品~浮世絵とは
さてそんな東洲斎写楽さんについて書く前に
まずは「浮世絵とは何か?」について
解説しておきます。
東洲斎写楽 作品~浮世絵の語源は?
まず「浮世絵」って何でしょうか?
「浮世絵」という言葉が初めて出たのは
1681年(延宝9年)俳書『それそれ草』。
「浮世絵や 下に生いたる 思ひ草 夏入」
浮世絵は「江戸時代に流行した庶民的絵画」
江戸を中心に発達しました。
大和絵(日本独自の絵画様式)が源流で
狩野派 ・土佐派・蘭画(和洋折衷の絵画)
を含みます。
では、浮世絵の「浮世」とは?
平安時代初期に使われていた「憂し」
(苦しい、辛い、を意味する言葉)の
連体系である「憂き」+「世」で
「憂き世」が語源です。
『伊勢物語』では
「つらいことの多い世の中」の意です。
『柳亭記』(1826・文政9年頃)にも
この言葉の説明があります。
「浮世といふに二つあり。
一つは憂世の中、
これは誰々も知る如く
歌にも詠て古き詞なり。一つの浮世は今様といふに通へり。
浮世絵は今様絵なり。」
つまり浮世絵の「浮世」は
「今様」で「当世風」というニュアンスだ
と書いてあるので
「浮世絵」とは
「その時代の流行の風俗を指す絵画」
と考えられます。
東洲斎写楽 作品~「肉質画」と「木版画」
浮世絵には2つのタイプがあります。
・肉筆画・・・筆で直接描いたものです
・木版画・・・木の板を彫って、印刷した絵です
木版画はさらに
一枚摺と版本(書籍タイプ)がありました。
東洲斎写楽 作品~版元での分業体制で量産
江戸時代の浮世絵は
版元の企画の下で分業されていました。
・絵師(絵を描く人)
・彫師(原版を彫る人)
・摺師(印刷する人)
東洲斎写楽 作品~浮世絵が庶民に広まったわけ
一点物の芸術品は全て
どうしても高級になりますよね。
でも、木版画は何枚も刷れますので
「大量生産」が可能になります。
江戸時代に浮世絵が庶民に広まった理由は
この「木版画」という技術で
どんどん刷れたおかげなのです。
庶民が買えるくらいに
リーズナブルになると
庶民の間でも
浮世絵が気楽に楽しめるようになり
江戸時代は浮世絵が大流行しました。
この時代は今でいう出版社みたいな
「版元」があって
版元の企画の下では
・絵師(作画)
・彫師(原版彫)
・摺師(印刷)
という分業体制が確立されました。
この分業によって
ある程度まとまった部数を
刷ることができるようになり
安く販売したり
版本のレンタルが可能になりました。
東洲斎写楽 作品~浮世絵で人気のテーマは?
「版元」の分業体制
が生まれたということは
さらに大きなビジネスシステムとして
その浮世絵で稼ぐ必要が出てきました。
つまり浮世絵は
「販売」が大きな目的です。
絵師たちは売れる作品を目指します。
どんな絵が売れるかというと
庶民に人気の絵
は売れますよね。
つまり
浮世絵を見ると
当時の庶民の需要や風俗が
とっても良く分かるので
アーティストだけではなく
今は歴史研究者たちにとっても
とても大事な資料として役立っています。
さて、浮世絵の題材は色々ですが
多いのは・・・
・美人画
・役者絵
・名所絵
・判じ物
・春画 など
「浮世絵」とは
「その時代の流行の風俗を指す絵画」
「浮世」とは?
「彼岸ならぬ現世」
=遊里や芝居町
庶民の憧れや関心が高いけれど
簡単にはいけないところの様子を
浮世絵で楽しむのが流行しました。
いわゆる
幕府から「悪所」とされた場所です。
江戸時代のみんなも
今と同じですね~^^
今の人が
好きなアイドルのプロマイド写真を見て
「キャー、素敵!」と憧れているように
江戸時代のみんなも
遊里や芝居町の押しの浮世絵を見て
「きゃー、すてき!」と
目をハートにしていたわけです。
今みたいに簡単に
コンサートで会いにもいけない時代です。
ネットはもちろん、DVDもCDも
写真集も雑誌もありません。
ファンにとって
浮世絵がどれだけ貴重だったか
想像できますね~。
このように、浮世絵を見ると
当時の庶民の需要や風俗が
とっても良く分かるのので
現在では
・今はもう存在しない名所
・人々の生活や生業
・当時の民衆の関心
・大衆文化など
を研究するための歴史資料としても
とても役立っています。
東洲斎写楽 作品~浮世絵界TOP5のスター絵師
写楽について語る前に
江戸時代の浮世絵師の
5大スターの特徴をまとめておきましょう。
まずこのお方から・・・
【東洲斎写楽】
謎の多い絵師、奇抜な役者絵を残した絵師。
【喜多川歌麿】
個々の表情を見事に表した美人画が得意。
1782年頃から美人画絵師として活躍。
「婦女人相十品 ポペンを吹く娘」など
女性の個性や感情を、多彩な技術で
繊細に描く作風が高く評価されている。
【葛飾北斎】
有名な「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」など
大胆かつ精密に描写された名所絵が代表作。
役者絵や美人画、版本挿絵、洋風画も学習し
北斎漫画も有名。
【歌川広重】
穏やかで品よく親しみやすい叙情的な画風。
【歌川国芳】
動物を擬人化したり、影絵を利用するなど
斬新なアイディアを劇画に取り入れた
ユーモアセンスが光る画風。
この5人の中でも
本日は世界的に大人気の
「写楽」さんがテーマですね^^
では、いってみよう~~~!
東洲斎写楽 作品~写楽は蔦屋重三郎tsutayaプロデュース!
東洲斎写楽の浮世絵~蔦屋重三郎tsutaya
謎の絵師「写楽」をプロデュースしたのは
江戸のヒットメーカーである
版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)
です。
ん?聞いたことある・・・
そう、皆さんもご存じの
レンタルビデオ・大型書店
「TSUTAYA」!
TSUTAYAは
創業者の祖父が営んでいた屋号が
「蔦屋」だったこともありますが
歌麿、写楽など
スター絵師たちを世に送り出した
蔦屋重三郎にあやかって名付けられた
とも言われています。
蔦屋重三郎(通称:つたじゅう)
寛延3年1月7日(1750年2月13日)
~寛政9年5月6日(1797年5月31日)江戸時代の
浮世絵版元・プロデューサー。喜多川歌麿・写楽・山東京伝など
人気浮世絵師をプロデュースして
数々のヒット作を世に輩出。
不思議なことに
写楽のデビュー作は
いきなり豪華な
「大判サイズ」の浮世絵!
名もなき新人絵師が、当時
最初から大判サイズを出すのは
かなり異例のことだったようです。
これはなぜか?
ちょうど写楽のデビュー前
蔦屋重三郎は幕府から財産の一部を
没収されていたようです。
老中・松平定信による
「寛政の改革」のせいです。
娯楽を含む風紀取締りも厳しくなり
寛政3年(1791年)
版元・蔦屋の作品がいくつも摘発され
蔦屋は過料により
財産の半分を没収されたとか。
蔦屋重三郎は
人の才能を見抜く目が
抜群だったと言いますから
写楽と出会った蔦屋重三郎は
蔦屋の起死回生をかけて
写楽をいきなり
「謎の天才絵師」として
華々しくデビューさせたのではないか?
といわれています。
寛政6年(1794年)には
東洲斎写楽の役者絵を出版
寛政9年(1797年)に48歳で没。
早すぎる死ですね。。。
脚気だったそうです。
蔦屋重三郎はとても面倒見がよく
人の才能を見抜く術にたけており
写楽、曲亭馬琴、十返舎一九など
彼の世話を受けた人物は数多いそうです。
出版業界のレジェンドですね^^
東洲斎写楽 作品~謎の絵師・写楽とは役者だった?
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は
江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6~7(1794~1795)年
約10か月の短い期間に役者絵などの作品を
145点発表したのち、忽然と姿を消した
謎の絵師として知られています。
時代劇などでよく聞く
「しゃらくせぇ! 」という言葉と
「写楽」の関係ですが
しゃらくさい=「小生意気だ」
という意味で
・「しゃらくさい」は
写楽からきているという説
・「写楽」が雅号を付ける際に
「しゃらくさい」を語源にしたという説
2つの説があります。
謎の経歴についても様々な研究があります。
阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者
斎藤十郎兵衛が写楽だったのではないか
という説が有力ですが
プロフィールなど詳しいことは不明です。
参照:Wikipediaなど
東洲斎写楽 作品~写楽の浮世絵は売れなかった?評価は?
写楽の代表作は、
役者のプロマイド写真みたいな「役者絵」。
特に上半身を描いた「大首絵」は
当時はその表現技法が奇抜だったので
賛否両論を巻き起こしました。
歴史に残った作家って
だいたいその当時に批判されて
売れなかったと言いますよね。
ゴッホも、ゴーギャンも。
写楽もしかり。
寛政6年5月
写楽は芝居興行に合わせて最先端技法の
黒雲母摺大首絵の作品28点で
華々しくデビューしたものの
絵の売れ行きはダメダメだったみたいです。
写楽の絵は特徴をよく捉えているのですが
容姿の欠点までも誇張して描いたので
「何これ、ひどーーーい!買いたくないわ」
ってなっちゃったようで。
だって、役者絵を買うのはファンですから
彼らが買いたいのは「美化して描いた絵」。
ファン心理を逆なでしちゃあ
売れる絵も売れますまい。
描かれた役者達からも不評だったみたいです。
『江戸風俗惣まくり』によると
(別書名『江戸沿革』『江戸叢書』巻の八所収)
「顔のすまひのくせをよく書いたれど、
その艶色を破るにいたりて役者にいまれける」
と記されています。
全作品の版元であった蔦屋重三郎と組んで
狂歌ブームを起こした狂歌師の大田南畝いわく
「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、
あまり真を画かんとて
あらぬさまにかきなさせし故、
長く世に行はれず一両年に而止ム」
(仲田勝之助編校『浮世絵類考』より)
ざっくりした訳:
役者をあまりにもありのままに描いたから
すぐに流行らなくなった
写楽が評価されたのは
なんとドイツ人のおかげです。
ドイツの美術研究家ユリウス・クルトは
著書『SHARAKU』明治43年(1910年)で
写楽のことを称賛しました。
これがきっかけで大正頃から
日本でもその評価が高まったそうです。
逆輸入的で面白いですね^^
東洲斎写楽 作品~写楽の正体は?
写楽は謎の多い人物で
彼に関する資料はほとんどありません。
しかし数少ない資料から
写楽の正体を探るべく
様々な研究がなされています。
さっそく見ていきましょう。
東洲斎写楽 作品~写楽は能役者の斎藤十郎兵衛だったのか?
江戸時代に書かれた
ほぼ唯一の写楽の素性に関する資料として
『増補浮世絵類考』
(考証家・斎藤月岑、1844年)には
「写楽斎」の項に
「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。
阿州侯の能役者也」
(通名は斎藤十郎兵衛、八丁堀に住む。
阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者である)
と書かれています。
当時の八丁堀は、徳島藩の江戸屋敷があり
その中屋敷に
藩お抱えの能役者が居住していたそうです。
また、蔦屋重三郎の店も
写楽が画題としていた芝居小屋も
八丁堀の近くだったようです。
写楽のペンネームは「東洲斎」。
江戸の東に洲があった土地・・・
八丁堀か築地あたり・・・
「東、洲、斎」を並び替えると
「さい・とう・じゅう」
写楽の通名は「斎藤十郎兵衛」
斎、藤、十・・・
おおっ!
つながるような気がしますね~^^
東洲斎写楽 作品~写楽別人説
しかし、これを裏付ける資料がない。
斎藤十郎兵衛が実在したかどうかも不明。
こんな絵が描ける能役者がいたかも不明。
やっぱり「写楽」は
他の有名な絵師が何か事情があって使った
雅号だろう、という
「写楽別人説」
が長いこと、主流でした。
でも、当時カリスマだった蔦屋が
無名の新人の作品を出版したのは何故か?
前期と後期で大きく作品の質が変わるのはなぜ?
短期間で活動をやめてしまったのはなぜ?
謎が多すぎますよね。
「写楽別人説」の候補としては
・絵師の初代歌川豊国
・歌舞妓堂艶鏡
・葛飾北斎
・喜多川歌麿
・司馬江漢
・谷文晁
・円山応挙
・歌舞伎役者の中村此蔵
・洋画家の土井有隣
・戯作者の山東京伝
・十返舎一九
・俳人の谷素外
・版元の蔦屋重三郎
・朝鮮人画家の金弘道
・西洋人画家?
などなど、多くの人が議論されたようですが
なんとなんと!・・・続く。
東洲斎写楽 作品~写楽=斎藤十郎兵衛説
近年の研究によって
・斎藤十郎兵衛が実在したこと
・八丁堀に住んでいたこと
これらの事実が明らかとなり
「写楽=斎藤十郎兵衛説」
が今は有力となっているようです。
その根拠は?
・能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』や
能役者の伝記『重修猿楽伝記』に、
斎藤十郎兵衛の記載があることが確認された
・蜂須賀家古文書
『蜂須賀家無足以下分限帳』
『御両国(阿波と淡路)無足以下分限帳』の
「御役者」の項目に
「斉藤十郎兵衛」の名が記載されていた。
・江戸の文化人について記した
『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に
「写楽斎 地蔵橋」との記録があり、
八丁堀地蔵橋に“写楽斎”と称する人物が
住んでいたことが確認されている。
・埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派
今日山法光寺の過去帳に
「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛が
文政3年(1820年)3月7日に58歳で死去し、
千住にて火葬された」
との記述が平成9年(1997年)に発見され、
阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛という人物が
八丁堀地蔵橋に住んでいたことが確認された
斎藤十郎兵衛が住んでいた八丁堀地蔵橋は
現在の日本橋茅場町郵便局の辺りになる。
これだけ資料が出てきたので
阿波の能役者である斎藤十郎兵衛が実在した
ということは間違いなさそうですね。
あとは、齋藤月岑の記した
「写楽が斎藤十郎兵衛である」
という記述を確実に裏付ける資料ですね。
『浮世絵類考』の写本の一部には
「写楽は阿州の士にて
斎藤十郎兵衛といふよし
栄松斎長喜老人の話なり」
栄松斎長喜は写楽と同じく
蔦屋重三郎版元の浮世絵師です。
長喜の作品「高島屋おひさ」にも
団扇に写楽の絵が描かれています。
「写楽=斎藤十郎兵衛説」
ほぼ確定と見ていいんじゃないかなぁと
私は思いますが
皆さんはどう思いますか?
東洲斎写楽 作品~東洲斎写楽の浮世絵作品
東洲斎 写楽の作品について
みていくまえに驚くべき事実があります。
写楽が活動した期間は
たったの10か月間!
だけなんです。
奇妙だと思いませんか?
詳しく見ていきましょう。
東洲斎写楽 作品~写楽が活動したのはたったの10ヶ月間!
東洲斎 写楽の作品について
みていきましょう。
写楽が活動した期間はたったの10か月間!
寛政6年(1794年)5月から
寛政6年には閏11月があって
翌年の寛政7年(1795年)1月までです。
このたった約10か月の期間に
145点もの作品を版行しています。
この活動期は4期に分けられます。
①第1期が
寛政6年(1794年)5月
28枚、全て大版の黒雲母摺大首絵
②第2期が
寛政6年7月・8月
二人立ちの役者全身像7枚
楽屋頭取口上の図1枚
細絵30枚
③第3期が
寛政6年11月・閏11月
顔見世狂言を描いたもの44枚
間版大首絵10枚
追善絵2枚
④第4期が
寛政7年(1795年)1・2月
春狂言を描いたもの10枚
相撲絵2枚
写楽の代表作といわれるものは
大首絵の第1期の作品です。
これを聞いた時
ホントびっくりしました。
写楽の代表作って
最初に発表された絵だけ。
後は段々と質が落ちたと
言われています。
普通は逆だと思うのですが
これも謎ですよね。
東洲斎写楽 作品~写楽第1期(寛政6年5月~)
第1期が寛政6年(1794年)5月。
28枚、全て大版で
黒雲母摺の役者の大首絵
代表作はこの時期に集中しています。
「市川蝦蔵の竹村定之進」
「三代坂田半五郎の藤川水右衛門」
「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」
「嵐龍蔵の金貸石部金吉」
どれも有名ですね!
目の皺、わし鼻、受け口・・・
役者の顔の特徴をこれでもか!
というくらい誇張して描いています。
落款は全て「東洲斎写楽画」です。
写楽作品はすべて蔦屋重三郎の店から出版されました。
富士に蔦の「蔦屋」の印があります。
表情やポーズも大胆で
当時の人は驚いたでしょう。
描かれてうれしくなかった
という気持ち、少しわかる気もしますw
今の写楽みたいに巨匠なら
みんな大喜びで
描いてもらったでしょうが
当時はぽっと出の
無名の作家さんだったわけですから。
東洲斎写楽 作品~写楽第2期(寛政6年7月~)
第2期が
寛政6年7月・8月です。
・雲母摺、大判
二人立ちの役者全身像7枚
・楽屋頭取口上の
一人立ち図1枚
・細判の単色背景による一人立ち図
(細絵)30枚
第2期の落款は「東洲斎写楽画」である。
いずれも緊張感のある画面構成であった。
東洲斎写楽 作品~写楽第3期(寛政6年11月~)
第3期が
寛政6年11月・閏11月
・顔見世狂言を描いたもの44枚
(58図という説もありました)
・間版大首絵10枚
・役者追善絵2枚
・相撲絵2種4図(3枚続1種と一枚絵1種)
間判14図及び大判3枚続相撲絵
以外の47図は全て細判。
雲母は使用せず、背景の描写が取り込まれており
背景が連続した組物が多い。
この時期は芸術的な格調は低いという評判。
落款は
「東洲斎写楽画」と
「写楽画」の2種がみられる。
この後は「写楽画」になるので
過渡期ですね。
東洲斎写楽 作品~写楽第4期(寛政7年1月~)
第4期が
寛政7年(1795年)1・2月
・正月の都座、桐座の狂言を描いた
春狂言の細判10枚
・大判相撲絵2枚、
・武者絵2枚
合計14図を刊行、
落款は全て「写楽画」。
役者絵は基本的に画中に描かれた役者の
定紋や役柄役処などから
その役者がその役で出ていた芝居の
上演時期が月単位で特定できます。
役者絵はこのようにして
作画時期を検証することが
現在の写楽研究の主流だそうです。
東洲斎写楽 作品~写楽前期と後期は別人が描いた?
写楽作品はすべて
当時の大人気プロデューサー
蔦屋重三郎のお店から出版されました。
これは絵の左下方に
富士に蔦の「蔦屋」の印が見えることで
検証できます。
今でいうブランドマークに近い存在感。
この印、カッコイイですよね♪
写楽の絵の発表時期は前出のように
4期に分けられています。
①第1期が
寛政6年(1794年)5月
28枚、全て大版の黒雲母摺大首絵
②第2期が
寛政6年7月・8月
二人立ちの役者全身像7枚
楽屋頭取口上の図1枚
細絵30枚
③第3期が
寛政6年11月・閏11月
顔見世狂言を描いたもの44枚
間版大首絵10枚
追善絵2枚
④第4期が
寛政7年(1795年)1・2月
春狂言を描いたもの10枚
相撲絵2枚
写楽の代表作といわれるものは
黒雲母摺大首絵の第1期の作品なんです。
後になればなるほど精彩を欠き
絵画的才能も
版画としての品質も
劣っている。
前期(1、2期)と後期(3、4期)では
まはや別人のように作風も違います。
おかしいですよね~。
これはなぜでしょうか?
まるで別人のようになっていく理由は
二つの説が出ていますが真理は藪の中…
①前期と後期では別人が描いていた説
もしくは
②工房により作品が作られていたとする説
(短期間で大量の絵が刊行されたので)
皆さんはどうしてだと思いますか?
作品総数は
役者絵が134枚
役者追善絵が2枚
相撲絵が7枚
武者絵が2枚
恵比寿絵が1枚
役者版下絵が9枚
相撲版下絵が10枚
2008年には
写楽作とみられる肉筆の役者絵も
発見されています。
写楽の役者絵には
勝川春章、鳥居清長、勝川春好、勝川春英
上方の流光斎如圭、狩野派、曾我派など
多くの画風の影響を受けたと見られています。
正解は分からないのですが
私の考えは②かな。
私は陶芸家なので色々見てきて
そう思えるのですが
陶芸でも大きな窯元は全て分業で
本人が作る作品と
窯元の工房スタッフが分業して作る作品と
サインを変えて出していきます。
世界的に有名な柿右衛門窯も
「酒井田柿右衛門」先生ご本人のお作品と
「柿右衛門窯」の作品は
値段も質も全く違います。
写楽もサインが変わりますよね。
「東洲斎写楽画」と
「写楽画」。
・「東洲斎写楽画」は写楽本人の作品
・「写楽画」のは写楽工房の作品
と考えるのは陶芸家から見ると
ごく自然なことです。
ちなみに私の場合は
スタッフはいませんが
美術陶器と日用食器で
サインを変えています。
アーティストがサインを変えるのは
「区別したい時」なので
もしかしたら写楽も・・・
芸術作品として描いた浮世絵と
そうでない作品とを
区別したかった可能性も
無きにしも非ずでしょうか。
正解が知りたいですね^^
東洲斎写楽 作品~写楽の大首絵と歌麿の美人大首絵
写楽の役者絵の大首絵は
すでに見てきましたが
喜多川歌麿の浮世絵の真骨頂は
美人大首絵
(びじんおおくびえ)
歌麿以前には
全身を描くスタイルしかありませんでした。
(好きなアイドルの顔をアップで見たい)
という願望は誰にでもあったと思います。
歌麿は役者絵などに用いられていた
大首絵の手法を美人画に取り入れ
上半身だけの構図に美しい顔をアップにした
「美人大首絵」を考案。
これが当時の浮世絵の支持層であった
江戸の町民に大受けして
歌麿はトップスターになります。
歌麿については
こちらをぜひご覧ください。
東洲斎写楽 作品~写楽の雲母擦(きらずり)
東洲斎写楽の浮世絵の特徴に
雲母摺(きらずり)があります。
写楽の大首絵は
雲母摺と呼ばれる技法が使われました。
雲母は貝細工の螺鈿のように
背景がキラキラ光ります。
画像で見ると灰色一色に映りますので
この画像では見えませんが
実物は光の反射で背景がキラキラ輝きます。
この手法により、描かれた役者は
非常に華やかに際立って見えたそうです。
雲母摺(きらずり)とは?
浮世絵に施した版画手法のひとつを指す。
岩絵具に細かく砕いた雲母を混ぜて
膠液で溶いて使用し、版木を用いて特色として刷る場合は
背景色に応じて
・白雲母摺
・黒雲母摺
・紅雲母摺
と呼ばれる。そのほかに細かな装飾には合羽摺を用いて、
膠分を増し粘着度を高めた絵具を
刷毛で型紙に塗りつけて施す。*合羽摺(かっぱずり)とは
浮世絵版画での彩色法。着色したい部分を切抜いた型紙を使う技法で
それを合羽と呼ぶ。柿渋や漆を塗って、水分をはじく。
着色したい部分に合せて絵の上に置き
刷毛や“たんぽ”でその切ぬた部分に色を塗り
合羽を取ると、切抜いた部分にだけ
着色されているという仕組である。友禅染の型染めは、これと同じく
型紙を用いているため、
染めの技術から思いついたものとも言われ
主に京都や大阪で行なわれたものである。参考:(ウィキペディア)
東洲斎写楽 作品~「写楽心中」写楽の娘が主人公の人気漫画
東洲斎写楽の浮世絵関連としては
Twitterで閲覧数500万PVを超えた
会田薫さんの人気漫画
写楽心中 少女の春画は江戸に咲く
(ボニータ・コミックス)秋田書店
があります。
15才の少女、春画を描く。
浮世絵ガールの大江戸ラブストーリー。
写楽自体が謎だらけなので
写楽の娘が主人公の漫画となると
もっと謎の設定ですね。
北斎の娘は有名なので
それがヒントになったのかどうでしょう?
まだ読んでいませんが
ちょっと面白そうです。
「絵筆一閃、大輪の花! 15才の少女、春画<エロス>を描く。
超話題の「少女が、えっちな絵を描いて頑張る話」!!?天才浮世絵師・写楽の娘のたまきは十五歳。
父の死後、育ての親である浮世絵版元・耕書堂の二代目・蔦屋重三郎と
大好きな絵を描きながら暮らしていた。蔦屋重三郎に淡い恋心を抱くたまきだが、
折しも耕書堂は二代目になってから衰退し、絵が売れなくなる。状況を打開したい蔦重は、
春画の取材としてお抱えの摺師・由太郎に抱かれてくるよう、たまきに命じ…!?
東洲斎写楽 作品~写楽映画
東洲斎写楽の浮世絵~写楽映画
「写楽」の映画は
“写楽研究家”でもあるフランキー堺が
故・川島雄三監督との約束を果たすべく
この企画を温めて
自らが「蔦屋重三郎」を演じます。
篠田正浩監督が映画化しました。
出演は
写楽:真田広之
岩下志麻、フランキー堺、片岡鶴太郎、
佐野史郎、葉月里緒菜・・・
寛政6年から7年にかけて
浮世絵界に突如として現れ
およそ140種の役者絵と相撲絵を残して
忽然と消えた謎の浮世絵師・写楽の
霧に包まれた正体に迫る歴史ドラマです。
東洲斎写楽 作品~葉月里緒奈「写楽」
「写楽」映画は主演が真田広之で
女優・葉月里緒菜も重要な役どころです。
葉月里緒奈は
この映画「写楽」に出演して
真田広之との不倫騒動を起こし
魔性の女になったと言われています。
葉月里緒奈(1993年、18歳)当時は
「やる気!元気!ハヅキ!」
というキャッチコピーで
美少女女優として大活躍しました。
とってもスリムで清楚な雰囲気だったので
若いころはどちらかというと
「清純派女優」のイメージだったと思います。
ですが、「写楽」出演後は
芸能界きっての
「魔性の女」に変わってしまいます。
共演した真田広之との不倫
スピード結婚・離婚
イチロー選手とも交際報道・・・と
数々の浮名を流し
「魔性の女」
というレッテルを貼られました。
清順派から魔性の女へ・・・
きっかけは、
葉月里緒奈が花魁役を演じた
映画「写楽」。
江戸時代そのものが
性に寛大で自由な時代でしたし
「春画」が生まれた背景もあります。
この映画が
ひとりの女優の人生を180度変えるとは
よほどのことですね。
共演して恋仲になる
タレントさんは多いです。
役にのめりこみすぎて
現実の方が変わってしまうと
聞いたことがあります。
葉月里緒奈が演じた花魁役は
主役の東洲斎写楽(真田広之)
と恋仲になる役でした。
普通はそれでも撮影が終わると
現実に戻るのでしょうが
葉月さんには元々
眠れる資質もあったのかもしれません。
役柄は現実となり、
写楽を演じた真田広之と恋愛関係に。
でも真田広之は既に女優・手塚理美と
結婚していましたので
2人の関係は不倫として話題となりました。
この時の取材で、
葉月里緒奈が放ったセリフが衝撃でした。
「奥さんがいる人と
付き合ってはいけないんですか?」
「恋愛相手に奥さんがいても大丈夫」
大丈夫って・・・。
この発言のあと、真田広之は妻と別居し
真田広之・手塚理美夫妻は
1997年に正式に離婚しました。
葉月里緒奈は
「魔性の女」と呼ばれるようになりましたが
真田広之とはあっさり破局。
その後、イチロー選手との密会や
ナインティナインの岡村隆史とのうわさ
一般男性との再婚、離婚
また一般人とのスピード結婚・・・と
「元祖・魔性の女」として
たびたびワイドショーを賑わせました。
きっかけとなった「写楽」の映画。
何があったのか
非常に気になるところですね。
巨匠画家の映画は面白いものを
こちらにたくさんまとめております。
おすすめですよ^^
東洲斎写楽 作品~東洲斎写楽美術館
東洲斎写楽の浮世絵は
全国各地の美術館で見ることができます。
「大阪浮世絵美術館」
大阪・心斎橋筋商店街に2019年7月に開館。
浮世絵師の四大巨匠
・葛飾北斎
・歌川広重
・喜多川歌麿
・東洲斎写楽
ほか、大阪や京都ゆかりの浮世絵版画が
多数展示されています。
1872年(明治5年)に創設された、
日本最古の博物館。
日本と東洋の文化財、美術品、考古遺物など
収集保管、展示公開。
本館、表慶館、 東洋館、平成館、
法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館
その他の施設からなる。
収蔵品の総数は11万件を超え、
国宝87件、重要文化財622件を含む。
巨匠の浮世絵など高額絵画は
いくらくらいするかご存じですか?
数百億円の名画に興味のあるかたは
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東洲斎写楽 作品~まとめ
東洲斎写楽の浮世絵、いかがでしたか?
①謎の多い奇抜な役者絵を残した絵師。
②写楽作品はすべて
当時の大人気プロデューサー
蔦屋重三郎のお店から出版された。
③写楽が活動したのはたった10ヶ月!
このたった約10か月の期間に
145点もの作品を版行した。
「写楽」は
英語「syaraku」でも通じるほど
国際的に大人気の浮世絵師です。
映画「 写楽」はもちろん
漫画「写楽 心中」も話題です。
蔦屋重三郎氏が手掛けた浮世絵師は
みんな売れっ子作家になっているので
彼のプロデュース力は素晴らしいですね。
東洲斎 写楽の作品は全国の美術館で
よく企画されていますので
機会があればぜひご覧ください。
それではご覧いただき有難うございました^^