喜多川歌麿の浮世絵~美人画、春画、判じ絵について

喜多川歌麿「当時三美人」

目次

喜多川歌麿の浮世絵~浮世絵とは?

喜多川歌麿「当時三美人」

皆さんこんにちは。

JOFAアートスクール校長
曼荼羅アーティストのMASAKOです。

今日のテーマは

【喜多川歌麿の浮世絵】

について、解説いたします。

浮世絵とは?

「浮世絵」って何でしょう?

これは江戸時代に流行った庶民的な絵画
江戸を中心に発達しました。
大和絵(日本独自の絵画様式)が源流
狩野派 ・土佐派・蘭画(和洋折衷の絵画)
を含みます。

浮世絵には肉質画と木版画がある

浮世絵には2つのタイプがあります。

・肉筆画(筆で直に描いたもの)
・木版画(印刷した絵)

木版画はさらに
一枚摺版本(書籍タイプ)があります。

浮世絵が庶民に広まった理由は?

浮世絵が庶民に広まった理由は
木版画という技術のおかげです。

一点物はどうしても高級品です。

しかし木版画は何枚も刷れますので
「大量生産」が可能になり

庶民が買えるくらいに
リーズナブルになったために

庶民の間でも
浮世絵が気楽に楽しめるようになりました。

版元の企画の下では
・絵師(作画)
・彫師(原版彫)
・摺師(印刷)

という分業体制が確立されました。

「絵師」という言葉は
最近の若いイラストレーターたちも
また使うようになりましたね。

ちょっと職人的で
かっこいい響きです。

この分業によって
ある程度まとまった部数を
刷ることができるようになり

安く販売したり
版本のレンタルが可能になりました。

浮世絵の題材は?

題材は色々ですが
多いのは・・・

・美人画
・役者絵
・名所絵 など

浮世絵は「販売」が大きな目的なので
絵師たちは売れる作品を目指します。

庶民に人気の絵は売れます。

つまり?

浮世絵を見ると
当時の庶民の需要や風俗が
とっても良く分かるのです。

ちなみに「浮世」とは?

「彼岸ならぬ現世」

遊里や芝居町など

庶民の憧れや関心が高いけれど
簡単にはいけないところの様子を
浮世絵で楽しむのが流行しました。

いわゆる
幕府から「悪所」とされた場所ですね。

ちょっと悪いことって
ドキドキ、ワクワクします。

江戸時代のみんなも
今と同じです^^

浮世絵を見ると
当時の庶民の需要や風俗が
とっても良く分かるのので

現在では

・今はもう存在しない名所
・人々の生活や生業
・文化など

を研究するための歴史資料としても
とても役立っています。

喜多川歌麿の浮世絵~浮世絵の祖(確立者)

菱川師宣とは?

『見返り美人図』 菱川師宣

浮世絵の祖といわれるのは江戸時代の画家
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)。

菱川 師宣は1618年~1694年。
享年はあいまいで、
64-65あるいは77くらい?

浮世絵の確立者であり
しばしば「浮世絵の祖」と称されます。

彼のスゴイところは
それまでは単なる絵入本の単なる挿絵だった
「浮世絵版画」の芸術性を高めて

鑑賞に堪え得るアートとしての
絵画作品にまで高めた点です。

これは歴史的にも大きな偉業です。

「見返り美人」ポーズを発明したのは江戸時代の絵師だった?

彼の代表作は
日本人なら多分、誰でも一度は
目にしたことのある絵

「見返り美人図」です。

『見返り美人図』 菱川師宣

この絵は構図とポーズが素晴らしく
多くの人々を感動させました。

今でもちょっと斜に構えて
はんなりと振り返る女性のしぐさを
「見返り美人」
と表現しますよね。

「日本一美しいお姉さん」と言われた
女優の壇蜜さんも雑誌の表紙で

「見返り美人図」を真似ています。

左右違ってはいるものの
髪型も着物も
浮世絵を参考にしたと分かりますね。

とってもおきれいです。

この「見返り美人」ポーズは
女性がとてもセクシーに見えます。

実はハリウッド女優など多くのセレブも
撮影やSNSの写真で頻繁
このポーズをとっています。

少し体をひねり、顔を横向ける
「見返り美人」ポーズ。

このポーズは自然と
視線もセクシーな流し目になり
体を少しひねって少し反り腰になるので
ボディラインもきれいに見えるのです。

さらには、このポーズは
「ポッコリおなかにも効く!」
ということで

ダイエットにいいそうですよw

こんな素敵なポーズを
江戸時代の男性画家が
こうして絵に残しているなんて!

そしてそれを今でも
我々が真似ているというのが驚きですね。

ママのポッコリおなかにも
効くかニャ~w

ちょ・・・しーっ!

喜多川歌麿の浮世絵~浮世絵の名門・北尾派と勝川派

北尾派の祖・北尾重政

そもそも最初に断っておくべき
ことがあるのですが

歌麿の出生(いつどこで生まれたのか?)
実は正確な記録は存在しないようです。

結構なぞの多い人物なので
いくつかの説があります。

出生地は?
定かではないのですが
江戸や川越、京都・・・という説あり。

18歳ごろ
「狩野派に師事した町絵師
鳥山石燕の門人となった」
という記録があり

ここでようやくその存在が確認できます。

この人に絵を学び、
北川豊章の画号で浮世絵師としてデビュー。

「喜多川」でなく
「北川」が本名みたいですね。

でも、当時
浮世絵の名門であった
北尾派と勝川派
組み合わせたのではないか?

という説もあります。

やがて「歌麿」を名乗るのですが
その表記も「哥麿」「うた麿」「歌麻呂」
など様々あったみたいなんです。

<浮世絵の名門であった北尾派と勝川派>

北尾派とは?

江戸時代後期の北尾重政 (1739~1820)
を祖とする浮世絵師の一派。
重政は俗称久五郎,のち佐助。
号は花藍,紅翠斎など。
独学で画技を学ぶ。

勝川春章らと合作の美人画,浮絵のほか
絵本類にも手を染める。
重政の門下には
山東京伝の名で戯作者として有名な
北尾政演 (1761~1816)

黄表紙の挿絵や武者絵,浮絵などに
多方面な制作をし、のち鍬形 蕙斎と名のった
北尾政美 (1761~1824) らがいる。

(出典ブリタニカ国際大百科事典)

 

勝川派とは?

勝川春章を祖とする浮世絵の一流派。
江戸時代中期を代表する浮世絵師。
本姓不詳。「藤原」とする説もある。

役者絵では役者個人の特徴を捉えた
似顔絵風作画の先鞭をつけ、
肉筆の美人画でも細密優美な作風で
高い評価を得た。
(wikipedia)

喜多川歌麿の浮世絵~歌麿の出生は諸説あり

だましゑ歌麿(ドラマ)

喜多川歌麿は美人画を得意とした
江戸時代後期の浮世絵師ですが

生年は未詳で、出生地も諸説あります。

江戸や川越、京都・・・と諸説ありますが
江戸生まれという説が今は有力みたいです。

18歳ごろに
狩野派の町絵師・烏山石燕に師事
(ここからの記録はある)

浮世絵師としてのスタートは、
1775(安永4)年の中村座の富本節正本
『四十八手恋所訳』下巻の表紙絵

初期の作品には勝川派の影響が見られ
鳥居清長風の美人画を描いていました。

 

喜多川歌麿の浮世絵~狂歌絵本で描いた花鳥、虫の絵で有名に

喜多川歌麿『画本虫撰』蝶と蜻蛉

喜多川歌麿の浮世絵の転機となったのは
狂歌絵本で描いた虫や鳥の絵でした。

公募で選ばれた狂歌に
歌麿が絵を添える形式で
『画本虫撰』など
7作続けて発表した狂歌絵本です。

この蔦屋重三郎のもとから出版した
狂歌絵本『画本虫撰』(1788)や
『百千鳥狂歌合』(1790頃)で

歌麿は花鳥や虫類を非常に
精密で写実的
に描きました。

当時、名プロデューサーとして
浮世絵業界の重鎮だった版元の
蔦屋重三郎(通称・蔦重)が

歌麿を狂歌作家として紹介し
一躍名が売れて評判が上がったそうです。

精密、写実的な絵は今も昔も
画力が分かるので評価されるのですね。

このトンボの精密さ!
すっごい画力です。感動・・・

喜多川歌麿の浮世絵~「春画」はエロ本?嫁入り道具だった?

喜多川歌麿「歌満くら」
蛤(はまぐり)にはしをしっかとはさまれて鴫(しぎ)たちかぬる秋の夕暮れ

春画はほぼすべての浮世絵師が全力で描いた大事なジャンル

喜多川歌麿の浮世絵を語るとき
「春画」はスルー出来ません。

現代の私たちは「春画」というと
いかがわしいエッチなジャンルで
エロ本みたいなイメージがありますが

実は春画は浮世絵の一大ジャンル
有名無名のほぼ全ての浮世絵師達が
全力で描いた浮世絵の大テーマなのです。

現在春画が見つかっていないのは
写楽くらいと言われています。

1705年、京都の浮世絵師、吉田半兵衛は
「春画は嫁入り道具で男女共用だった」
と言っています。

春画とは?

言葉の定義も見ておきましょう。

春画とは?

人間の性的交わりを描いた日本の肉筆画
(肉筆浮世絵)版画,版本などの総称。
枕絵,笑絵などともいう。

浮世絵の一種で、特に江戸時代に流行した
性風俗を描いた絵画。

笑い絵や枕絵、秘画、ワ印とも呼ばれる。
冊子状・・・笑本、艶本、好色本、枕草紙
それほど露骨な描写でない絵・・・危絵

また、一般的ではないが
淫画や淫絵、猥画、猥絵という呼称も在る。
(参照: ウィキペディアなど)

どうして「笑絵」?と思いましたので
少し調べて見ました。
江戸時代に「笑絵」とも呼ばれた春画は
・登場人物が性交中に犬に吠えられた
・浮気現場がばれた
・海女が蛸に襲われた
・小人になって他人の情事をのぞいたり
・子供が大人の情事を邪魔したり
・動物がこっけいに登場したり
武士も庶民も、その性的なユーモアを
大らかに楽しめる風潮があった事からです。
これはさらに時代をさかのぼると
「古事記」などに通じる日本独自の感性で神話でも
裸踊りをする神を他の神が大笑いする場面が
岩戸に隠れた天照大神の話にも登場します。
今なら、神様にそんなイメージを持つと
罰が当たりそうに感じますが
今よりも昔の方が
かえって、あっけらかんとしたようです。
大人達にいたずらをする
子供や猫もよく登場するよ

春画の起源は平安時代、中国の医学書から

春画の起源は?
なんと平安時代までさかのぼります。
中国から伝わった医学書である
房中書(房中術)の図解
その始まりだったようです。
日本の春画は
早い時期は貴族,僧侶,武家など
身分の高い人々の間で広まりました。
その頃は肉筆が中心で,一点もの。
高価でお金持ちしか持てなかったのです。
しかし浮世絵の発展と共に
江戸時代になると木版技術の発達により
浮世絵版画の春画が安価になりました。
つまり流通が増えて、安くなり
一般庶民層へも広がっていきます。

春画を描いた絵師は?あの葛飾北斎も

春画を描いた絵師は驚きべきことに
当時の絵師たちほぼ全員です。
春画は価格も高く
よく売れたと言いますから
生活の大事な糧でもあったのかな
と思いますが
ユーモアたっぷりの絵を見ると
嫌々描いたというよりも
やっぱり楽しみながら
書かれたのかなと思えます。
鈴木春信
鳥居清長
喜多川歌麿
葛飾北斎
歌川国貞・・・など
写楽だけはまだ
春画作品は出てきていないようです。
そうなると逆になぜ?
って思いますね。
とにかく、
著名な浮世絵師はほぼ全員
春画を手がけている、という事実。
春画は単に男性のためのものではなく
もともと中国の医学書が原点です。
おそらくは教育用として?
若い純朴な娘さんにも嫁入り道具に
持たされるものでした。
今のように娯楽がない時代でもあり
多くの老若男女が熱狂したようです。
春画の根底には「男女和合」の精神があり
性をおおらかに肯定する気分が横溢している。
江戸時代の
享保の改革・寛政の改革・天保の改革の
三大改革の時に春画は禁制になる
そのつど地下にもぐり制作が続けられた。
非合法の出版物なので
かえって贅沢な画材を使い、彫摺も
超絶技巧を駆使した豪華なものができた。
明治以降は政府により猥褻物として
徹底的に取り締まられ
研究や学問の世界からも締め出された。

しかし,21世紀になってから
ロンドンの
大英博物館や東京の美術館で
特別展が開催され
大きな反響を呼んだ。
本格的な文化・美術の一分野として
正当に評価されつつある。
(出典 ブリタニカ国際大百科事典 )

喜多川歌麿の浮世絵~美人画

喜多川歌麿「ビードロを吹く娘」

さて歌麿の努力は
40代を迎え一気に開花したようです。

狂歌絵本や春画で得た人気
蔦重の引き立てもあり

美人画においても
数々の実験的な作品を
発表します。

そんな中で生まれた作品が
役者絵の大首絵の構図を
美人画に用いた美人大首絵。

この斬新なアイディアは大ヒット!

「ポペンを吹く女」など
「婦人相学十躰」
「婦女人相十品」
「歌撰恋之部」

シリーズが次々と大ヒットして
歌麿は浮世絵師として
不動の人気をつかんでいきます。

喜多川歌麿の浮世絵~喜多川歌麿 美人画

喜多川歌麿の浮世絵~悪所(遊里、芝居町)の憧れが絵になった

歌麿

浮世絵が江戸時代に人気がでた理由は
・テーマの面白さや
・価格の安さ
印刷技術に発達によって絵が安くなり
手の届く値段だったという理由の他に
もう一つあります。

描かれたのが
「憧れの世界」だった点です。

昔、遊里や芝居町は「悪所」と呼ばれ
貧しい一般庶民は立ち入れない
夢のように華やかな世界でした。

そこで活躍する美しい遊女や役者は
今でいうならTVでみる
ジャニーズやアイドルの美男美女。

TVも写真もない時代では
美人画や役者絵が、いまでいう
アイドルブロマイド写真のような
役割を果たしたようです。

吉原では様々な行事の際には
売れっ子芸者たちが好きな扮装
(今ならコスプレ?)で
郭の中を練り歩きます。

一般庶民がその顔を拝める機会など
絶対にありませんが、
見れるものなら見たいですよね。

それが絵の中では叶うのです。

初期の美人画は全身像だったそうですが
歌麿は役者絵などに用いられていた

「大首絵」の技法

顔がよく見えるように
上半身アップで描くようになり

これが江戸の町民に大受けして
歌麿は瞬く間に人気絵師になったようです。

 

喜多川歌麿の浮世絵~歌麿の代表作「寛政三美人」

喜多川歌麿「当時三美人」

喜多川歌麿の浮世絵代表作は
「寛政三美人」です。

今でいう「ミス日本」
みたいな感じですね。

江戸の美人画として
実名も添えられた傑作です。

『江戸東京学事典』評判娘の項

「当時の三美人」とは?

・浅草随身門脇難波屋おきた
・両国米沢町高島屋おひさ
・芝神明前菊本のおはん

 

『増訂武江年表 2 東洋文庫 118』
浅草随神門前の茶店難波屋のおきた、
薬研堀同高島のおひさ、
芝神明前菊本のおはん、

この三人美女の聞き有りて、
陰晴をいとはず
此の店に憩ふ人引きもきらず

喜多川歌麿の浮世絵の手法~美人大首絵

喜多川歌麿「ビードロを吹く娘」

喜多川歌麿の浮世絵の真骨頂である
優れた技法を見ていきましょう。

美人大首絵
(びじんおおくびえ)

先にもお話ししましたが
歌麿以前にも浮世絵に「美人画」
すでに確立されていました。

ただし歌麿以前には
全身を描くスタイルしかありませんでした。

(好きなアイドルの顔をアップで見たい)
という願望は誰にでもあったと思います。

歌麿は役者絵などに用いられていた
大首絵の手法を美人画に取り入れ

上半身だけの構図に美しい顔をアップにした
「美人大首絵」を考案。

これが当時の浮世絵の支持層であった
江戸の町民に大受けして
歌麿はあっという間に
トップ人気絵師の座を射止めたようです。

浮世絵にもともとあった「美人画」
    +
役者絵にもともとあった「大首絵」

=「美人大首絵」

 

歌麿は足し算が上手だったみたいですね。

しかし歌麿は
ただ構図を変えただけではありません。

他にも多くの工夫があるので
見ていきましょう。

喜多川歌麿の浮世絵の手法~美人の美肌が引き立つ「歌麿の白」「毛割」

どんな美人もお肌がいのち
「色が白いは七難隠す」

喜多川歌麿の肉筆美人画では
「歌麿の白」というくらい
白の使い方が絶賛されています。

また、歌麿は花鳥や虫類を非常に
精密で写実的
に描いていたように

美人画でも
なまめかしい肌を「歌麿の白」で描きつつ

繊細な生え際を版木に彫る
「毛割」(けわり)という技法や
複雑な髪の流れを表す「八重毛」
つややかな黒髪を表現するために
光沢のある艶墨の重ね塗りなど

あらゆるテクニックを駆使して
髪の毛の一本一本を丁寧に描写しました。

また背景や
着物の絽や絣文様に至るまで繊細

表現していました。

「美は細部に宿る」

美人画を描かせたら当代一と謳われた
浮世絵師・喜多川歌麿の肉筆美人画は
その真骨頂で、気品にあふれています。

ここまで美しく描いてくれる歌麿。

彼がモデルにした美人はその名が
たちまち江戸中に広まったということで

プロデュース力もすごかったようです。

喜多川歌麿の浮世絵の手法~雲母摺(きらずり)

雲母

喜多川歌麿の浮世絵技法は
まだあります。

背景にだって気を抜きません。

「雲母」という
キラキラを輝く鉱物を使って

雲母摺(きらずり)
という技法も使っています。

雲母摺とは?

浮世絵に施した版画手法のひとつを指す。
岩絵具に細かく砕いた雲母を混ぜて
膠液で溶いて使用し、

版木を用いて特色として刷る場合は
背景色に応じて
・白雲母摺
・黒雲母摺
・紅雲母摺
と呼ばれる。

そのほかに細かな装飾には合羽摺を用いて、
膠分を増し粘着度を高めた絵具を
刷毛で型紙に塗りつけて施す。
(ウィキペディア)

 

喜多川歌麿の浮世絵の手法~空摺(エンボス加工)

歌麿の空摺

喜多川歌麿の浮世絵技法はまだ続きます。

空摺(からずり)

歌麿は狂歌絵本のころから「空摺」という
版木に絵具をつけないで強く摺り、
版木に彫った柄の凹凸を浮き上がらせる

いわゆる
「エンボス加工」もを用いていました。

これにはびっくり!

江戸時代にエンボス加工があったなんて。

歌麿さん天才過ぎるでしょう・・・

美人大首絵以前にも手がけていた技法で
美人大首絵でも着物の柄や背景に
しばしばこの技法が用いられています。

さらに、エンボスの応用で

「雲母摺」の技法も。

背景を単なる凹凸だけではなく
キラキラ輝く雲母で摺ったもの

非常に豪華な摺りの技法です。

喜多川歌麿の浮世絵の手法~無地の地潰し

喜多川歌麿の浮世絵技法「地潰し」
についても触れておきましょう。

「地潰し」とは?

背景を無地一色で摺ることです。

シンプル・イズ・ベスト

ごちゃごちゃ描きこむよりも逆に
背景を省くことで人物が浮き立って見える
という効果があります。

一見単純なように思えますが高等テクです。

実はムラなく均一に摺るのって
水彩でもなんでも難しいですよね。

ここは地味に
熟練した摺り師の技量が問われます。

「黄潰し」(きつぶし)
黄色の一色で背景を刷る技法も
歌麿が得意としたものです。

 

エンボス加工の技法で和紙を浮き上がらせる
「空摺」(からずり)

背景をあえて無地にする
「地潰し」(じつぶし)

黄色一色で背景を刷りつぶす
「黄潰し」

光沢を与えてより贅沢に見せる
「雲母摺」(きらずり)

 

構図も斬新で
色も美しく
背景だけ見ても、多彩な技法を駆使し

歌麿の「美人大首絵」は
江戸の人々がこれまで目にしたことがない
圧倒的な美しさを体現し
皆を熱狂させました。

天才・歌麿の神業とアイディアの集大成。

 

アーティストはかくあるべきと
改めて私も身の引きしまる想いです。

うーん、知れば知るほど
ファンになります。

ホント、私も頑張らないと!

うん、ママはもっと
身を引き締めないとニャ。
食べてばっかじゃだめだよ。

うう~
ぐうの音も出ましぇん。
しゅん。

喜多川歌麿の浮世絵~幕府との戦い

松平定信「寛政の改革」

さて、かくも才気あふれる歌麿ですが
その人生は順風満帆ではありませんでした。

「春画」の項で少しお話ししましたが
当時の幕府は浮世絵が風紀を乱すとし

老中・松平定信による寛政の改革によって
美人画に遊女以外の記名が禁じられます。

そこで歌麿は句を添えたり、
絵の中に名前を暗示したものを描いたり
何とか法の目をくぐろうとしましたが
それも禁止になります。

そしてついに、寛政12(1800)年
歌麿の真骨頂「美人大首絵」
の制作まで禁じられてしまうのです。

頭の良い歌麿は
その都度、幕府の規制の盲点を突き

三人組を描いたり
判じ絵で対抗したり

色々工夫して
新分野を開拓しながら
次々に新作を発表します。

いたちごっこですね。

歌麿はアイデアマンですから
そんなところも反骨のヒーロー的に
江戸の町民には人気だったと思います。

でも幕府は当然面白くありません。

歌麿52歳で逮捕。

なんと美人画ではなく
「絵本太閤記」に取材した作品で
思わぬ筆禍事件(*)で、手鎖50日という
重い処罰を受けてしまうことになるんです。

*豊臣秀吉を扱うことは禁止だったので
幕府の逆鱗に触れた。

歌麿は美人画を描き続けたかったでしょう。

歴史とは時に残酷です。
歌麿はその後復活はしますが・・・
結局は寂しい最期を迎えます。

この話はこの後に。

喜多川歌麿の浮世絵~判じ絵

喜多川歌麿の判じ絵「難波屋おきた」

老中・松平定信による寛政の改革によって
美人画に遊女以外の記名が禁じられたとき

歌麿は句を添えたり、
「判じ絵」で名前を暗示したものを描いて
法の目をくぐろうとしました。

それがこちらの作品です。

茶托にのせて運んでいる茶碗に
「難波屋」の桐の紋が入っています。

さらに左上の絵を拡大すると

歌麿の判じ絵

これは言葉を絵に置き換えた、判じ絵で
上から順に

菜・二把、矢、沖、田
「な・にわ・や・おき・た」と読めます。

面白いですよね~^^

でも、これも禁じられちゃいます。ぐすん。

 

「判じ絵」については
こちらに詳しく解説しています。

【判じ絵は面白い】脳トレアートのなぞなぞ・クイズ

判じ絵はアートのクイズみたいなものです。

たのしいので、良かったらぜひ
見てみてくださいね^^

喜多川歌麿の浮世絵~歌麿の悲しい最期

喜多川歌麿「太閤五妻洛東遊観之図」

松平定信による寛政の改革によって
歌麿が最も得意とする浮世絵美人画
風紀を乱すとして幕府から規制されましたが

アイデアマンの歌麿は反骨精神で
規制の盲点を突いて

判じ絵で対抗したりしながら
次々に新作を発表していました。

しかし、そんな歌麿は
幕府に目を付けられマークされてしまいます。

やがて1804年(文化元年)5月
豊臣秀吉の”醍醐の花見” を題材にした
「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)
を描いたことが幕府の逆鱗に触れ

歌麿52歳で逮捕。

手鎖50日の刑罰を受けました。

「手鎖」 出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 

*手鎖 (てじょう) とは?

江戸時代の刑罰です。
前に組んだ両手に鉄製で瓢箪型の手錠をかけ
一定期間自宅で謹慎させる刑です。

牢に収容する程ではない
軽微な犯罪や未決囚に対して行われた
処罰ではあったのですが

歌麿の場合は
幕府にずっと反抗していた事が祟ったのか

結果的にかなり過酷な拘束となったようで
気力体力を奪われ病気になってしまいます。

版元たちはやつれはてた歌麿を見て
回復の見込みがない
余命が短いらしいと感じ

生きている間に少しでも多くの作品を!
と歌麿には大量の依頼が殺到しました。

しかし、悲しいことに
服役後の歌麿はすっかり人が変わり

また
意欲も失せて、最期のほうの作品は
何の魅力も独自性もない作品だった
と伝えられています。

そんな中で歌麿は過労がたたって
二年後の1806年(文化3年)死去

その後は長いこと
無縁仏となっていたそうなんです。

墓所は世田谷区烏山の専光寺。
戒名は秋円了教信士。

華やかな才能と活躍とはあまりにもかけ離れた
とても寂しく悲しい最期でした。

 

もし、幕府の規制がなかったら?
もし北斎みたいに長生き出来ていたら?

歌麿は老後に
どんな作品を描き残したでしょうか。

歴史に「もし」は無意味かもしれませんが
後世で国の宝となった
この、たぐいまれなる天才絵師が

志半ばで、政治事件で命を縮め
最期は版元たちに骨の髄まで絞られて
家族にも恵まれず、ボロボロになって
無縁仏で非業の死を遂げたなんて・・・

本当に悔やまれてなりませんね。

喜多川歌麿の浮世絵~参考文献、資料、映画、漫画

<喜多川歌麿の参考文献・資料>

小説

・笠原良三 『小説歌麿』
ゆまにて、1975年

・光瀬竜 『歌麿さま参る』
1976年 ハヤカワ文庫、のち角川文庫

・藤沢周平 『喜多川歌麿女絵草紙』
蒼樹社、1977年 のち文春文庫

・高橋克彦 『だましゑ歌麿』
文藝春秋、1999年 のち文庫

映画

・『歌麿をめぐる五人の女』 :
1946年 監督: 溝口健二 歌麿: 六代目坂東簑助

・『歌麿 夢と知りせば』
1977年 監督: 実相寺昭雄 歌麿: 岸田森

テレビドラマ

・『だましゑ歌麿』 :
2009年、2012年、2013年、2014年 テレビ朝日、演者:水谷豊。

漫画

・『歌麿』 六田登
(1998年-2000年、アクションコミックス。全6巻)

参照: wikipedia、和楽など

 

喜多川歌麿の浮世絵の手法~まとめ

喜多川歌麿「当時三美人」

以上、華やかな才能に恵まれた歌麿の
浮沈変転の人生をご覧いただきました。

いかがでしたか?

アート鑑賞は作品も大事ですが
作家の人となりを知り
人生を知り、技法を知ると
もっと深く鑑賞できます。

このブログをご覧くださった皆さんが
前よりもっと歌麿の絵を
身近に感じてくださったら
とてもうれしいです。

①浮世絵の祖とされる菱川師宣の代表作は
「見返り美人図」

喜多川歌麿の代表作は
「寛政三美人」

②歌麿は美人大首絵など数々の技法を考案。

③浮世絵の美人画は
アイドルのブロマイド的なものだった

葛飾北斎についてはこちらに
詳しく解説しておりますので
是非ご覧ください。

葛飾北斎とは 浮世絵、武勇伝、映画、名言

 

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東洲斎写楽 作品、浮世絵、謎の多い絵師写楽の漫画、映画

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artjofaJOFAアートスクール校長
はじめまして。 マルチアーティストの松尾まさこと申します。 私は「アートで社会貢献!」を目指し JOFAアートスクール校長として 国内外で作家活動やアートを教える活動をしています。 「脳トレになる曼荼羅アート」では、皆さんと一緒に「アートで健康になる」ことを目的に書いています。脳トレ、癒し、ストレスをセルフコントロールできる素晴らしい「曼荼羅アート」の技法、絵が苦手でも簡単に書けるようになるお絵かきのコツ、アートが好きになる楽しい情報を幅広く発信しています。是非お楽しみくださいね。